静岡県出身の私が,大学1年生時に関西に移住しておどろいたことがあります。小中学校の夏休みの終わりごろ,路傍の祠が飾り立てられ,大人や子どもが群がっているのです。何か特殊な宗教団体だろうかと距離を置いて見ていましたが,後にそれが関西ではポピュラーな「地蔵盆」という行事だと知りました。
大きなお寺の本尊や大仏の多くは,悟りを開いた後の仏である「如来」の姿です。釈迦如来,阿弥陀如来,大日如来,などなど。いっぽうお地蔵さまはというと,修行中の仏を意味する「菩薩」であるにもかかわらず,日本全国あらゆる地域の道端に祀られています。数では一番かもしれません。人気の理由はおそらく,地蔵菩薩が「早世して地獄に落ちた子どもの救い主」と信じられてきた歴史があるためでしょう。経文を読めない一般人にも伝わるよう,卑近な言葉と聞きやすいリズムで仕立てられた「地蔵和讃」と呼ばれる歌のようなもので語り継がれてきたそうです。
「地蔵和讃」はどんなものかと思って読んでみたところ,またおどろきました。子を持つ親ならば,読んだだけで落涙必至です。子がいなくても泣けます。江戸時代から現在まで,社会制度や生活スタイルがどんなに変わっても,子を持つ親の想い,悲しみや喜びはまったく変わらないのだなあと感じ入ってしまいました。
※地蔵和讃(一部抜粋)
これは此の世の事ならず 死出の山路の裾野なる
賽の河原の物語 聞くにつけても哀れなり
二つや三つや四つ五つ 十にも足らぬ幼子が
賽の河原に集まりて 苦しみ受くるぞ悲しけれ
河原に明け暮れ野宿して 西に向いて父恋し
東に向いて母恋し 恋し恋しと泣く声は
この世の声とは事変わり 悲しさ骨身を透すなり
ここに集まる幼子は 小石小石を持ち運び
これにて回向(えこう)の塔を積む
一重(ひとつ)積んでは父のため
二重(ふたつ)積んでは母のため
三重(みっつ)積んでは古里(ふるさと)に
残る兄弟我がためと 礼拝(らいはい)回向ぞしおらしや
暮れに地獄の鬼が来て やれ汝らは何をする
娑婆(しゃば)と思うて甘えるな ここは冥途の旅なるぞ
娑婆に残りし父母は ただ明け暮れに汝らの
形見の着物を見て嘆き 達者な子供を見るにつけ
何故に我が子は死んだかと 酷(むご)や可哀(かなし)や不憫やと
親の涙は汝らの 責め苦を受くる種となる
獄卒金棒振り上げて 積んだる塔を押し崩す
やれ恐ろしと幼子は こけつまろびつ逃げ回る
峰の嵐が聞こえれば 父かと思うて馳せ上がり
谷の流れの音すれば 母かと思うて馳せ下り
石や木の根に躓きて 手足を血潮に染めながら
此の世の親を冥途より 慕い焦がれる不憫さよ
折しも西の谷間より 能化の地蔵大菩薩
動(ゆる)ぎ出てさせ給いつつ 何を嘆くか嬰児(みどりご)よ
今日より後は我をこそ 冥途の親と思うべし
泣く幼子を御衣の 袖や袂に抱き入れて
憐み給うぞありがたや 助け給うぞありがたや
大慈大悲の深きとて 地蔵菩薩に如(し)くは無し
子に先立たれし父母よ 両手を合して願うべし
先日,東北地方のある地域で伝えられている伝統的な神楽・獅子舞を見学する機会がありました。
内容はおそらく典型的な獅子舞の形で,獅子の頭と布を用い,笛と太鼓のリズムの中でストーリーが展開します。
初めて生で鑑賞する獅子舞から私が感じたのは,「恐怖」でした。
獅子舞において黒い布で表現された獅子の体躯は,明確な動物の四肢の形を成していないため,かえって不気味さを増しています。
暗闇にうごめく怪物のおぞましさがリアルに思い起こされます。
獅子の鳴き声をシンプルな笛のようなもので表現しているのですが,これがまるで赤ん坊の泣き声のような音色で,なんともいえない戦慄をおぼえます。
獅子舞の獅子はまさに怪物(モンスター)です。
夜の暗闇にひそむ野獣や自然の脅威そのものを体現しています。
そして獅子舞のストーリーは驚愕の展開を迎えます。
獅子を討つためか鎮めるためか,舞を演じつつあらわれた人間は,背後から獅子に飲み込まれてしまいます。
食われた人間の骨と衣服をあらわしているのでしょうか,獅子は扇子と帯を吐き出します。
西洋風のストーリーであれば,英雄が怪物を打ち倒し,姫や宝を救い出してハッピーエンドとなるでしょう。
自然の中の脅威に抗い,それを征服し,勇気をもって安全を勝ち取る世界観です。
いっぽう獅子舞で表現されていたのは,人間が怪物に敗北して犠牲を払い,自然の片隅で恐怖に震えながら生きる世界観です。
このような世界観の下では,常に自然への畏怖・畏敬の念が絶えることはありません。
おのずから「私たちは生かされている」という気持ちにもなるでしょう。
こんなに恐ろしくて救いのない物語を,観る側は喜びながら鑑賞します。
最後は観客が前に並び,獅子に頭を三度噛まれて,めでたいめでたいと言って締めくくりです。
小さい子どもは親に抱きかかえられて,泣き叫びながら獅子に噛まれます。
親はニコニコ笑いながら,顔を真っ赤にして泣く我が子の記念写真を撮ったりします。
親子で,安全な恐怖を共に体験すること,自然への畏怖・畏敬の念を分かち合うこと,これらが将来の親子の絆や地域との結びつき,自分や他人を尊重する姿勢を作っていくのではないか,そんなインスピレーションを感じる体験となりました。